カート・ヴォネガット「プレイヤー・ピアノ」書評

この本は、預言書であり革命書だ!と思う。 

プレイヤー・ピアノ (ハヤカワ文庫SF)

プレイヤー・ピアノ (ハヤカワ文庫SF)

 

「プレイヤー・ピアノ」の発表は1952年。SFのペーパーバックライターから、20世紀の英語圏における小説の巨匠と呼ばれるまでになった、カート・ヴォネガットの処女作長編 です。 

始めて読んだのは もうだいぶん前のことになるんだけど(そしてそのときはあまり印象に残らなかった)、今、かなり就活で苦労した後に改めて読み返したら、グサグサと心に突き刺さるものがあったので紹介してみます。


この小説の舞台になるのは、全ての生産手段が機械によって自動化された近未来の世界です。

その世界では、機械を設計・運用するごく一部のエリートと、そこからはじき出された一般市民とに階層が完璧に別れてしまっています。生産システムの設計に関われない多数の普通の人は、機会化するほどのメリットもない人間相手のサービス業、軍隊、あるいは"ドジ終点部隊"と自嘲的に呼ばれる道路工事のような公共事業に関わって生きるよりなくなっています。

それでも、彼らは生物として食べて生きる上での危機に晒されているわけではありません。最低限の生存は保証され、恋愛をして、家族を持つこともできるし、思想の自由もあります。G・オーウェル1984年」のように、思想統制された全体主義国家で、人間的な尊厳をすべて奪われている状況にあるというわけでもありません。

それでも、 ドジ終点部隊で働く人々からは、たった一つ、「働きがい」が、仕事を通じて確かに自分が社会に対して役に立っているという、実感を奪われています。それは、1984年的な状況からするとずいぶん軽い悩みのように思えるけど、これらの小説の発表から半世紀経った今では、オーウェルよりもヴォネガットのほうが、未来を正確に見通していたように感じます。

 

さて、主人公のポール・プロテュース博士は、 偉大な技術者の息子として、自らも若きエリート機械技術者としての出世街道を進んで行きます。 

しかし、プロテュース博士はドジ終点部隊の人々との交流を通じて、世の中が便利になること、人々が労働から開放されて、結果として働きがいを失っていくこと、が果たして本当に正しいことなのか、と悩みます。

 

こっから若干のネタバレ。

プロテュース博士は、結局技術者としてのエリートの仕事を辞め、やがて、同じようにエリートでありながら機械文明に対しての違和感を持つ友人と共に、機械を壊し、真に人間的な生活を取り戻すための革命に関わっていきます。

しかし結局のところ、物語の中で、革命(というか暴動)は鎮圧されます。


そして、物語の最後で、機械を壊して理想のユートピアを作り上げたのにも関わらず、再び人々が機械を修理して、 再び人々が機械文明の中に戻っていくことが示唆されているのは、本当に教訓的だと思います。

あるシステムをより快適に、効率的に、便利にすること。社会の中に不合理な問題があったら、その問題を解決したいと思う。それは、エンジニアの(というか人間の)根本的な欲求だと思います。それはもう、人間が持ってる根本的な欲望だから、止めることは難しいのだろうと思います。でも、それを突き詰めて行ったとき、ある意味で本当にグロテスクな社会が立ち上がる。便利であること、効率的であること、それが100%正しいことなのか、多分、それには絶対的な答えの出ない問いでしょう。でも、答えが出ないとしても、そういう問題を問題のまま持っておくことは、多分正しい態度なのだと思います。

 

もう一度言っておくと、この本が書かれたのは今から50年以上も前。その当時は、まだコンピュータも、グローバル化による先進国の職業の空洞化もありませんでした。コンピュータ化された現代に生きる人間の目線からすると、やっぱりコンピュータでなく機械をメインに据えたこの小説は、少々古臭い感じがすることは否定できません。でも、そんな状況でこれだけ将来を見通したヴォネガットの小説は(そして、SF的な想像力は)今でも色褪せていないという点は、やはり素晴らしいと思います。