現世と来世の危ういバランス

最近起こったある出来事について考えたこと。

人間のいろいろな複雑さは、結局のところ、死すべき存在である個人を集めて、何らかの永続的なシステムを形成しなければならないということに起因するのだと思う。

もし、人生というものが「たかだか一世紀弱生きて、死んだらそれでパー」というだけのものでしか無いとしたら、人間は現世における目先の快楽のみを追求し、将来へ向けた活動、例えば勉強なり社会貢献なりを行う基盤が全く失われてしまうことになる。そのいきつくところは利己主義と拝金主義でしかなく、(例えばマトリックスが描いたように、テクノロジーによって提供される覚めない幻覚のような)退廃と堕落の中で穏やかに安楽に干からびていくことになる。

だから、人間の共同体は、国家も、宗教も、会社も、あるいは家庭という一番小さなものでさえ、「個人の死後もそのコミュニティが残り、何らかの形で個人が存在したという事実が残り続けていく」という物語を持っている。

靖国で会おう」と言って零戦アメリカの空母へ特攻していった若者たち。
復活や輪廻転生を説く宗教。
先祖の霊を祀る家庭内の祭事。

これらは、全て生きている人間が死んだ後も何らかの形で残ることを担保し、生きている間に無責任に陥らないためのものなのだ。「来世」というものが存在しているからこそ、「現世」においても正しい生活を送ろうとし、やや逆説的ではあるものの、結果的に「現世」の繁栄がもたらされてきたのだと思う。

だが、ここ2, 300年くらいの間、人間は「来世」を引きずり下ろし、その埋め合わせを物質的繁栄の中に求めた。
確かにその科学革命と技術革新が人間の様々な欲望を充たす手段を提供し、福祉を充実させ人間の生活を豊かにしてきたことも事実である。
しかし、それでも埋め合わせの利かない部分はあった。イギリスの歴史家、トマス・カーライルは、当時の英国の産業革命を評して、「胃袋は満腹だが、魂は空っぽ」と言ったとされる。第二次大戦中の兵士の手記などを読んでも分かる通り、貧窮の中でこそ精神的充足感を得られるという話は珍しくない。どうやら人間というものは、その肉体が求めるものと精神が求めるものは相反しており、本質的に相容れないその2つの相克を生きていかなければならないらしい。


しかし、一方で、「現世」と「来世」の問題は、制御理論で言うところの「不安定極」、峰の上に乗った転がりやすいボールのようなものなのだと思う。

現世の退廃を嫌うあまりに来世の側、精神主義の側に傾きすぎると、今度はもはや「現世」の側の論理によってその傾きを押しとどめることができなくなる。
そのいきつくところは、無限の精神主義によって現世のあらゆる利益を来世のための供物とする社会であり、教会によって人生のあらゆる側面を束縛された中世の闇を復活させることに他ならない。
いまさら、そんなものを歴史の中から呼び戻したいとは誰も思わないだろう。

だから注意深くそのスロットルを握り、そのどちらかがどちらをも破滅させないように、コントロールする必要がある。(こういう宗教の価値を相対化させるような考え方自体が宗教家には受け入れがたいんだろうけど)
それを怠った抗議運動、行き過ぎた物質文明と資本主義の「胃袋」に対する「魂」からの異議申し立てが、「胃袋」の漸次的改善ではなく、それを一足先に超えた「魂」による「胃袋」の支配へと飛んでしまうことは、ある種理解できないこともない。

僕はそれに賛成することもないしそういう宗教活動をすることもないけど、じゃあ解決法はどうするの? っていう話はあるけどひとまず今日はここまで。

参考文献

どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要です

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120120/1327071261