「好き」というとてつもない才能

まだ自分が幼なくて、自分が受ける授業を自分の裁量で決定できなかったころのこと。体育の授業がある日や、体育祭・体力測定といったスポーツがらみのイベントがある日をのことを、数週間前から指折り数えていた。それが楽しみだったからじゃない。苦痛だったからだ。

小中高は週に3時間もあるから地獄だった。
体育のある前日から、当日体育の授業の終わりのチャイムが鳴るその時まで、
ひたすら不安感がつきまとう。

午後に体育がある日の午前中の授業中は、
ずっと胸が苦しくて苦しくて仕方がないのと同時に、
リア充同士の「あー早く体育の時間にならないかな!!」
って会話を聞くのが苦痛だった。
体育が嫌いだった http://anond.hatelabo.jp/20071006210158

物心ついたころから、身体を動かすことは苦手だった。球技ではそもそもボールに触れることすらできず、野球ではライトの守備(しかも複数人)、ドッジボールでは寄け専門。走れば常にクラスで一桁台。もちろん、後ろから数えてだ。「このままではいけない」と思い、高校に入ったのを機にして、ある運動部に入ったりもしたが(その部を選んだのは、初期投資がゼロであったこと、個人での競技があったから)、結局体育会系の空気に馴染めずに、半年経たずにやめてしまった。

母親などは、運動会のリレー選手にもなったことがあるくらい足が速かったらしく、「なんでこんなにスポーツが苦手な子になったのかしら」と、常に不思議がっていたくらい。とにかく、徹底的にスポーツはダメで、どうして同級生の友人たちがあんなに速く動くボールを追えたり、自分にとっての短距離走のスピードで30分間走り続けられるのだろうかと不思議だった。

それが理解できたのは、中学のころにジャグリングを始めてからのことだった。自分が昨日までできなかったことができるようになっていく、その不思議な感覚にすっかり魅了された。学校から帰るとすぐに練習をして、暗くなるまでずっと一人でボールを投げ続けていた。しかも、周囲にジャグリングをやっている友達は居ないので、上達が遅いとか、何々ができないと、人と比べられることもない。とにかくジャグリングが大好きだった。

そして、ふと思い出してみると、自分にとってはとてつもない苦痛でしかなかったバスケやサッカーを、同級生たちがとても楽しそうにやっていたように思う。彼らは休み時間になるたびにボールを持って、実に楽しそうに遊んでいた。そう、「遊んで」いたんだ。そのクラスメイトたちにとっては、スポーツが苦痛だという自分は理解できない存在だったことだろう。ちょうど、僕が「スポーツが楽しい」という感覚が理解できなかったように。考えてみれば、彼らは幼ないころから絶え間無い練習と努力をしていたんだ。もちろん、それは彼らにとっては努力を要するものじゃなかっただろうけど。


さて、前置きが長くなった。僕が考えていたのは、この「好き」「楽しい」という感情こそが一般に言われる才能や適性というものなんだろうということだ。自分の周囲を見ても、数学やプログラムが得意だったり、絵を描くのが上手い人は、誰に強制されるでもなく、自分からそのことをやっている。そして、それでいて本人にとっては自制心を要することではなく、本当に楽しそうにやっているのだ。成功したスポーツ選手や芸術家は、よくこう言う。「私に才能なんてありませんよ。ただ、人より多く時間を掛けただけです」 そうかもしれない。しかし、普通の人にはそれだけの時間を掛けることはできないだろう…


ネット上では、よく「好きなことを仕事にしろ」という言い方を聞く。強制されたからではなく、自分が心の底から熱中できることをして、対価を得る生き方は、確かにすばらしいかもしれない。
しかし、何かを普通程度にしか好きになれない人、あるいは、社会的・経済的にまったく無意味なことしか好きになれない人はどうしたらいいんだろう。これは恋愛と同じなんだろうと思う。自分の好きでないことを好きになることもできないし*1、逆に好きなことを好きでなくなることもできない。才能なんてないというのは事実だとしても、与えられた手札でゲームをしなきゃいけないというのは同じなのかもしれない。

*1:幸いにして恋愛においてそのような状況になったことは無いが